「木橋」という文庫本を読んでいた |
その後、ロックバンド人間椅子を聴いていて、メンバーの和嶋慎治と鈴木研一は青森県弘前市出身だと知り、あの町の隣だと思った。
夏場所の相撲中継を見ていて阿武咲の出身地が青森県北津軽郡中泊町と紹介されていた。あの町にけっこう近いなと思った。さらに初代若乃花は弘前市青女子(あおなご)出身だそうで、そこは岩木川をはさんであの町と接しているなと考えていた。
そして7月のいつだかテレビニュースを観てエッ!と驚いた。「このハゲー」の豊田真由子議員が新しい政策秘書を雇ったニュース。雇われた人は青森の板柳町の町会議員だという。驚いたのはピンポイントで『板柳町』が出てきたからだ。板柳町こそが読んでいた小説「木橋」の舞台となった町だった。
小説「木橋」の主人公の少年は、網走で産まれ、母に置き去りにされ、幼い兄弟達で暮らします。網走で保護されて母の実家のある青森の町に移ります、暮らしを支えるために小学生時から新聞配達をしているのですが、行商する母にうとまれ、兄弟からもいじめられ、家出を繰り返す悲惨な小学中学時代を過ごします。洪水のために通行禁止になった木橋のたもとで、新聞店に行けずにたたずむ少年。そんな少年の板柳町の暮らしを描いた自伝的小説が「木橋」です。
わたしは本の中にある彼のイラスト地図を頼りに、ストリートビューで彼の住んでいたマーケットといわれた共同住宅跡地や、木橋を渡った弘前市青女町にある新聞配達店を訪ねました。すでに50数年前の町と現在の町は変わっています。彼のイラストで描かれた木橋はコンクリートの橋に代わり、マーケットといわれた共同住宅跡は空き地になっていて、新聞店も特定できませんでした。橋のはるか向こうに見える岩木山だけは変わることなくそこにありました。
1968年の晩秋、全国をまたにかけて4人を殺害した連続ピストル射殺事件があった。映画や舞台になったほど世間を騒がせた彼の名前は永山則夫。貧しさゆえにまともな教育を受けなかった彼は獄中で本を書き1971年「無知の涙」を出版。高校生の私は白い表紙の分厚い辞書サイズの手記「無知の涙」を読んだ。
永山則夫は網走番外地(刑務所ではない。この番地は彼の生き様におおいに影響した)で出生し、母の実家のある青森の板柳町に移り、そこで中学卒業まで暮らします。兄弟からのいじめに家出を繰り返した少年は、東京に集団就職で出て、盗みに入った外人ハウスで手にした拳銃で、東京、京都、名古屋、函館でタクシー運転手や警備員4人を射殺して逮捕されます。19歳と10ヶ月でした。囚人となった彼は自らの罪を認めつつ、自己の行動を客観的にふりかえり創作を続けます。無期懲役から一転1990年に死刑が確定し1997年8月1日に東京拘置所において死刑が執行されます。この年の5月に起きた14歳の少年による『酒鬼薔薇聖斗事件』が刑の執行を早めたといわれています。享年48歳でした。
第19回新日本文学賞を受賞した「木橋」は永山則夫が獄中で書いた自伝ともいえる小説です。けなげにも必死に生きようともがく苦しむ板柳町での少年時代を描いています。罪の善悪は置いておき、一作家としての永山則夫を読んで多くのことを考えさせられます。少なくとも創作は彼の救いであり安らぎであったはずです。刑場に向かう彼が激しく抵抗した声を、同じ死刑囚の大道寺将司も聞いたそうです。
追伸
永山則夫は獄中で文通していた在米日本人のミミこと和美(フィリピンと日本人のハーフ)さんと結婚しています。その彼女がこの春に「死刑囚永山則夫の花嫁」という往復書簡の本を出版しました。興味ある方はどうぞ。